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2025年10月19日日曜日

貝山緑地公園 地下壕探検記 #横須賀海軍航空隊

 


大正13年6月 20歳だった祖父は

軍人になるために故郷を離れ 

横須賀海軍に入営しました。




その縁で、在りし日の祖父がいた横須賀を

めぐる旅を続けています。




さて、今回は

横須賀市の追浜、通称”夏島”

地下壕のある貝山緑地公園を訪ねました。







人はいません。







まずは、バイクを停めて

静かな山道を登りました。



最初に見つけたのは

予科練誕生之地







昭和5年、海軍少年航空兵の教育機関として「予科練習部」

志願者の年齢は15歳から17歳

やがて”予科練”と呼ばれる施設が建てられました。






少し登ったところに、開けている場所がありました。




「海軍航空発祥之地」の碑

昭和十二年、日中戦争で

南京を占領した時に建立されています。






その横には「鎮魂之碑」



散る桜が悲しい



入隊した若者たちは特別攻撃隊員(特攻隊)などに出撃。

追浜で学んだ予科練生の、8割の方が戦死したそうです。




大切な一文が、碑に刻まれています

少年たちは、戦いを求めてこの地に集まったのではなく

制空護国の一途の念いからであった


最後に書いてあるのは

”昭和56年6月1日

この地に学んだ生存者一同”


言葉になりません。。



戦後80年になりましたが

この国を、大切な家族を守るため、命がけで戦った人々のことは

けっして忘れてはいけないのです。





そして

貝山緑地には、全長2kmを越える

大きな地下壕があります。


NPO法人アクションおっぱま 貝山地下壕見学の手引きより








(現在は黒色の部分のみ見学可能)




昭和19年、戦況が悪化し 激化する空襲の中

本土決戦に備えて、各種施設の地下化を進めたそうです。











一般公開はされていませんので

見学会に行ってきました。























大谷石を積んで入口が作られています。









近年、補強された入り口付近








2011年の震災から数年間、見学は中止となっていましたが

一部補強されて、再開したそうです。









当時のドアが残っていました。

電線と、通信のための線が3本ありました。

















水槽の跡

雨水なども貯めて使ったそうです。









煮炊きする”かまど”も

物を置くための棚も作ってあります。



かまどからは、煙を逃す管も


生活の痕跡が残されていました。



出入口は、何か所かありますが

土で埋もれていました。





手彫りの跡が、はっきり残っています。

















岩盤の強い地層に掘られた、この大きな空間は

上層部が使う会議室だったのではないかと言われています。





奥の壁面の、四角いくぼみ。

何かを掲げていたのでしょう。







終戦を迎えて、貝山も含む航空隊の敷地は

米軍に接収されました。



地下壕に関する資料はほとんど処分されて

詳しいことは、わからないままだそうです。






入口の下の単純壕には

出土品を展示してありました。






ガスマスク





海軍のマークが入った食器



兵士用の食器と、将校用の食器は

素材を変えてありました。









壁面には、米軍が使っていた時の

文字も残っていました。





古くから海軍の都市として発展してきた追浜。

戦争を知る世代も少なくなる一方ですが

忘れてはいけないこと。




「NPO法人アクションおっぱま」では

貝山地下壕などの戦跡の見学会を主催し

広く紹介していく活動をされています。




今回も、NPOのボランティアの方たちが

丁寧に案内してくださいました。







この日は、第三海保と、油槽庫群も見学しました。






油槽庫群 中にタンクも見えます。







次の世代に伝えるため

大切に残そうと、努力されている姿に感動し

お伝えすると

「命ある限り、がんばるわよ~!」と

明るく話してくれたNPOの方の笑顔がステキでした。



地下壕が作られた昭和19年は

祖父は40歳で空母鳳翔の分隊長でした。




念願の海軍地下壕を見ることが出来て、嬉しかったです。

ご興味のある方は、ぜひ!




長文におつきあいいただき

ありがとうございました。