DUCATI 3

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2025年12月26日金曜日

トヨタ ランドクルーザー80

 






大好きな家族と、愛車を描いてほしい。

とのオーダーです。






これは、ある一人の若い女性のお話。




独身時代に、どうしても乗りたかったランクル80




ようやく見つかり手に入れて

たくさん走って、思い出のたくさんある車。










ローンのために仕事もがんばり

小さな故障を乗り越えながら、夢が叶った楽しい日々










やがて時は経ち、運命の人と出会い、結婚。








2人の元気な子どもにも恵まれて

子育てと家事に追われながらも、幸せな日々








ベビーシート2台を取り付けて

家族4人、各地を旅しました。








子どもが成長して、歩けるようになると

そろそろ”自分で乗り込める”高さの車に変えた方が良い。と判断

ランクルを手放すことになりました。







大好きなランクルと、家族の絵。





身近な人は、お気づきでしょう(笑)

この絵は、娘家族からのオーダーでした。




少女が大人になり、青春を謳歌し

仕事もがんばり

結婚して、母親になる。









娘を見守ってきた私にとっても

思い出深い一枚になりました。





おめでとう。

これからも、自分らしく笑顔いっぱいに

家族で力を合わせて

人生を歩んでくださいね。















2025年11月24日月曜日

満を持して、アイコンを変える話。 

 


「SNS」が世の中に出現したのは2004年のmixy

今では Facebook、Instagram、TikTok,

X、thread、Youtubeなど種類も増え

もはや、現代人の生活の一部になって久しいですね。



さて

この度、SNS「プロフィール画像」の

アイコンを変えることにしました。



これまでのアイコンは

2010年に製作した絵

ハーレーに跨って、茅ケ崎の海を眺める自分の姿」





江ノ電のイベント、沿線展に出展する時に

初めて、自分を描いてみました。

(当時バイクがなかったので、お借りしたハーレー)



それからバイク雑誌、VIBES等でも紹介してくださり

この絵で、覚えてくれた方も多かった

懐かしい思い出があります。



”愛車の絵描き”と看板をあげて

日本全国を回っていた頃から、ずっと

自分のアイコンとして使っていました。



そして

今年の春頃、知り合いから

「そろそろ自分のバイクに変えてもいいのでは?」と

アドバイスを受け


「まったくその通りだ!」と 大きく納得した私。







「アイコンを変えると、違う人と思われる」という

理由で、アイコンは変えない主義だったのですが





長年の相棒 HONDA CB 250export 

どこに行くのも、いつも一緒なのに


その愛車をアイコンにしないとは. . . . 

CBが寂しがりますよね。


善は急げ


そこで、さっそく

半年前に製作をスタート






オーダー製作の合間や

休日などに

少しずつ、描き進めていました。







愛車CBに乗って、筆を持ち

風景を描いている姿にしました。





青や緑は、背景と同化するので最初からナシ




悩んだTシャツの色は

PC上でシュミレーション。




CBの赤色を引き立てたいので、黒に決めました。




ベレー帽はCBと揃いの赤





スタートから

半年かかりましたが、ようやく完成



絵を描いてる自分を描く



どこから見ても

まぎれもない私なのだ。笑




というわけで、満を持して

本日11月24日から

赤いCBの絵が

私のSNS、FacebookとInstagramの

プロフィール画像のアイコンになります。





皆さま、どうぞよろしくお願い致します。








新しい年まで、あとひと月半

愛車の絵描きを始めて

来年で、20年目になります。

(節目だし、ちょうどいいかなと。笑)







慣れ親しんだ、この絵のタイトルは

「茅ヶ崎より愛を込めて」



たくさんの思い出がある、大好きな絵です。

これまで、長い間ありがとうね。






PS・マスター

アドバイスに、心から感謝いたします。





2025年10月31日金曜日

思い出の BMW M3




お世話になっている方へ

「愛車の絵」をプレゼントしたい。と

ご連絡を頂きました。






届いたのは、一枚の写真。

ピントがぼやけて、懐かしく感じました。




今は、スマホで何枚でも

確認しながら撮影できますが

現像しないと、どんな画像がわからない昔のカメラ。


写真のピントを合わせるのが難しかったですよね。





そして

「背景は、雪が残る早春の風景に」とのご要望






ラフスケッチで、レイアウトの確認をしました。








雪山を描き入れて

遠景の街を。





愛車はBMW E30型M3

1986年に発売された名車です。








青空を映して、ボンネットのツヤを出しました。






細部まではっきり見える画像を

ネットで探して

参考にしながら描きました。









ピンボケのお写真を 

”心の目”で

ひたすらに見つめるのです(笑)






細~い筆で、お顔を慎重に描きました。








気持ちの良い、春の空。

懐かしい思い出に「新しい景色」を描き入れました。




大切な贈り物に「愛車の絵」をお選びいただき、光栄です。

オーダーありがとうございました。









 

2025年10月19日日曜日

貝山緑地公園 地下壕探検記 #横須賀海軍航空隊

 


大正13年6月 20歳だった祖父は

軍人になるために故郷を離れ 

横須賀海軍に入営しました。




その縁で、在りし日の祖父がいた横須賀を

めぐる旅を続けています。




さて、今回は

横須賀市の追浜、通称”夏島”

地下壕のある貝山緑地公園を訪ねました。







人はいません。







まずは、バイクを停めて

静かな山道を登りました。



最初に見つけたのは

予科練誕生之地







昭和5年、海軍少年航空兵の教育機関として「予科練習部」

志願者の年齢は15歳から17歳

やがて”予科練”と呼ばれる施設が建てられました。






少し登ったところに、開けている場所がありました。




「海軍航空発祥之地」の碑

昭和十二年、日中戦争で

南京を占領した時に建立されています。






その横には「鎮魂之碑」



散る桜が悲しい



入隊した若者たちは特別攻撃隊員(特攻隊)などに出撃。

追浜で学んだ予科練生の、8割の方が戦死したそうです。




大切な一文が、碑に刻まれています

少年たちは、戦いを求めてこの地に集まったのではなく

制空護国の一途の念いからであった


最後に書いてあるのは

”昭和56年6月1日

この地に学んだ生存者一同”


言葉になりません。。



戦後80年になりましたが

この国を、大切な家族を守るため、命がけで戦った人々のことは

けっして忘れてはいけないのです。





そして

貝山緑地には、全長2kmを越える

大きな地下壕があります。


NPO法人アクションおっぱま 貝山地下壕見学の手引きより








(現在は黒色の部分のみ見学可能)




昭和19年、戦況が悪化し 激化する空襲の中

本土決戦に備えて、各種施設の地下化を進めたそうです。











一般公開はされていませんので

見学会に行ってきました。























大谷石を積んで入口が作られています。









近年、補強された入り口付近








2011年の震災から数年間、見学は中止となっていましたが

一部補強されて、再開したそうです。









当時のドアが残っていました。

電線と、通信のための線が3本ありました。

















水槽の跡

雨水なども貯めて使ったそうです。









煮炊きする”かまど”も

物を置くための棚も作ってあります。



かまどからは、煙を逃す管も


生活の痕跡が残されていました。



出入口は、何か所かありますが

土で埋もれていました。





手彫りの跡が、はっきり残っています。

















岩盤の強い地層に掘られた、この大きな空間は

上層部が使う会議室だったのではないかと言われています。





奥の壁面の、四角いくぼみ。

何かを掲げていたのでしょう。







終戦を迎えて、貝山も含む航空隊の敷地は

米軍に接収されました。



地下壕に関する資料はほとんど処分されて

詳しいことは、わからないままだそうです。






入口の下の単純壕には

出土品を展示してありました。






ガスマスク





海軍のマークが入った食器



兵士用の食器と、将校用の食器は

素材を変えてありました。









壁面には、米軍が使っていた時の

文字も残っていました。





古くから海軍の都市として発展してきた追浜。

戦争を知る世代も少なくなる一方ですが

忘れてはいけないこと。




「NPO法人アクションおっぱま」では

貝山地下壕などの戦跡の見学会を主催し

広く紹介していく活動をされています。




今回も、NPOのボランティアの方たちが

丁寧に案内してくださいました。







この日は、第三海保と、油槽庫群も見学しました。






油槽庫群 中にタンクも見えます。







次の世代に伝えるため

大切に残そうと、努力されている姿に感動し

お伝えすると

「命ある限り、がんばるわよ~!」と

明るく話してくれたNPOの方の笑顔がステキでした。



地下壕が作られた昭和19年は

祖父は40歳で空母鳳翔の分隊長でした。




念願の海軍地下壕を見ることが出来て、嬉しかったです。

ご興味のある方は、ぜひ!




長文におつきあいいただき

ありがとうございました。