大正13年6月 20歳だった祖父は
軍人になるために故郷を離れ
横須賀海軍に入営しました。
その縁で、在りし日の祖父がいた横須賀を
めぐる旅を続けています。
さて、今回は
横須賀市の追浜、通称”夏島”
地下壕のある貝山緑地公園を訪ねました。
まずは、バイクを停めて
静かな山道を登りました。
最初に見つけたのは
予科練誕生之地
昭和5年、海軍少年航空兵の教育機関として「予科練習部」
志願者の年齢は15歳から17歳
やがて”予科練”と呼ばれる施設が建てられました。
少し登ったところに、開けている場所がありました。
「海軍航空発祥之地」の碑
昭和十二年、日中戦争で
南京を占領した時に建立されています。
その横には「鎮魂之碑」
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| 散る桜が悲しい |
入隊した若者たちは特別攻撃隊員(特攻隊)などに出撃。
追浜で学んだ予科練生の、8割の方が戦死したそうです。
大切な一文が、碑に刻まれています
「少年たちは、戦いを求めてこの地に集まったのではなく
制空護国の一途の念いからであった」
最後に書いてあるのは
”昭和56年6月1日
この地に学んだ生存者一同”
言葉になりません。。
戦後80年になりましたが
この国を、大切な家族を守るため、命がけで戦った人々のことは
けっして忘れてはいけないのです。
そして
貝山緑地には、全長2kmを越える
大きな地下壕があります。
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| NPO法人アクションおっぱま 貝山地下壕見学の手引きより |
(現在は黒色の部分のみ見学可能)
昭和19年、戦況が悪化し 激化する空襲の中
本土決戦に備えて、各種施設の地下化を進めたそうです。
一般公開はされていませんので
見学会に行ってきました。
大谷石を積んで入口が作られています。
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| 近年、補強された入り口付近 |
2011年の震災から数年間、見学は中止となっていましたが
一部補強されて、再開したそうです。
当時のドアが残っていました。
電線と、通信のための線が3本ありました。
煮炊きする”かまど”も
物を置くための棚も作ってあります。
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かまどからは、煙を逃す管も
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出入口は、何か所かありますが
土で埋もれていました。
手彫りの跡が、はっきり残っています。
岩盤の強い地層に掘られた、この大きな空間は
上層部が使う会議室だったのではないかと言われています。
奥の壁面の、四角いくぼみ。
何かを掲げていたのでしょう。
終戦を迎えて、貝山も含む航空隊の敷地は
米軍に接収されました。
地下壕に関する資料はほとんど処分されて
詳しいことは、わからないままだそうです。
入口の下の単純壕には
出土品を展示してありました。
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| ガスマスク |
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| 海軍のマークが入った食器 |
兵士用の食器と、将校用の食器は
素材を変えてありました。

壁面には、米軍が使っていた時の
文字も残っていました。
古くから海軍の都市として発展してきた追浜。
戦争を知る世代も少なくなる一方ですが
忘れてはいけないこと。
「NPO法人アクションおっぱま」では
貝山地下壕などの戦跡の見学会を主催し
広く紹介していく活動をされています。
今回も、NPOのボランティアの方たちが
丁寧に案内してくださいました。
この日は、第三海保と、油槽庫群も見学しました。
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| 油槽庫群 中にタンクも見えます。 |
次の世代に伝えるため
大切に残そうと、努力されている姿に感動し
お伝えすると
「命ある限り、がんばるわよ~!」と
明るく話してくれたNPOの方の笑顔がステキでした。
地下壕が作られた昭和19年は
祖父は40歳で空母鳳翔の分隊長でした。
念願の海軍地下壕を見ることが出来て、嬉しかったです。
ご興味のある方は、ぜひ!
長文におつきあいいただき
ありがとうございました。